サガン鳥栖&鳥栖フューチャーズ

Jリーグ

サガン鳥栖&鳥栖フューチャーズ



987年、PJMジャパン(東京都品川区)が静岡県浜松市においてPJMフューチャーズを創設した。佐鳴湖の近くに自前のサッカー場であるPJM佐鳴湖サッカー場を開設し、同年8月29日、読売サッカークラブを迎えてのこけら落としの試合が開催された。

チームは静岡県西部3部リーグからスタートし、森下仁之、ウーゴ・マラドーナらの活躍で順調に昇格、発足から91連勝で1992年に東海社会人サッカーリーグで優勝して、1993年からジャパンフットボールリーグ2部に昇格。この年は元アルゼンチン代表のセルヒオ・バティスタが加入し、準優勝。

1993年9月28日、Jリーグ準会員を申請。また、PJMジャパン社長の有田平の出身地であった佐賀県に本拠移転を打診していると報じられた。審査で運営会社の経営基盤、またホームスタジアムの整備の問題などから、11月の理事会・実行委員会では準会員承認を保留された。

1994年2月、運営会社としてフューチャーズ・フットボール・クラブ株式会社を設立。同年3月、日本サッカー協会において佐賀県鳥栖市への移転が承認された。ホーム戦は佐賀県総合運動場陸上競技場や小郡市陸上競技場で開催された。同年8月17日、Jリーグ理事会においてJリーグ準会員として承認された。ただし、当時は準会員チームも参加可能だった同年のJリーグカップ・Jサテライトリーグへは参加できなかった。同年9月24日、鳥栖フューチャーズにチーム名を変更すると共に、運営会社の商号を株式会社佐賀スポーツクラブに変更した。同年オフ、ウーゴ・マラドーナら5選手が福岡ブルックスに移籍した。

1995年、元日本代表GKの松永成立や元カメルーン代表主将のステファン・タタウなどが加入した。1996年もホルヘ・デリー・バルデスら選手の大量補強が行われ、6月16日の鳥栖スタジアムのオープニングマッチには20,686人が入場。また、同年の総入場者数はリーグ1位の12万5,612人であった。しかし、成績は3年連続4位にとどまり、Jリーグ昇格は叶わなかった。1996年11月27日、筆頭株主のPJMジャパンが運営から撤退し、PJM創業者で運営会社の社長であった有田平が社長を退任すると発表された。

1997年1月31日、10億4,300万円の負債を抱えた株式会社佐賀スポーツクラブは臨時株主総会を開いて解散を決議した。同年2月1日、Jリーグ臨時実行委員会は鳥栖Fの準会員資格を取り消した。同年12月24日、申請していた特別清算が不認可となり、1998年1月29日、佐賀地方裁判所によって破産宣告および破産廃止が決定された。

PJM撤退後、チーム存続を求める5万人を超える署名があった事などを受け、1997年2月1日、Jリーグ臨時実行委員会は鳥栖Fのジャパンフットボールリーグ残留と同年のナビスコカップ参加を決定し、同年2月4日、佐賀県サッカー協会などが任意団体「サガン鳥栖」を創設し、鳥栖Fの権利を引き継いだ、サガンは1998年に法人化し、1999年からJリーグに加盟した。

1998年に「株式会社サガン鳥栖」として法人化(社長には引き続き中村が就任)また、1999年から発足したJリーグ ディビジョン2への入会も決まった。
鳥栖F解散に対する反省から、新法人は大口のスポンサーは設けず、小口の株主を多くすることによって経営の安定化を図った。しかし、法人化初年度から赤字続きで随時小口の融資を集めて増資することで凌いだ結果、株主が多くなったことで経営の主導権争いや、会社の経営方針に対する株主や関係者からの批判が相次ぎ、狙いとは逆に経営の混乱が続いた。1998年オフにはJリーグから2年契約で斡旋されていた大口スポンサーとの契約が終了し次期運営予算が大幅に減少、主力選手を多数解雇する羽目となった、新戦力は補充したものの、入団テストの際に提示した条件は月給にしておよそ10万円で、予算不足は明らかだった。

当初から暫定的な社長就任であった中村の健康問題もあり、2001年9月には当時の監督であった高祖和弘がシーズン最終戦終了後に社長に就任する人事案を可決したが後に撤回、年が明けた2002年に半年前から取締役に就任していた建設・解体会社社長の古賀照子が社長に就任した。しかし、古賀は自分の方針に反対する幹部、職員などを大量に解雇しスタッフを一新したが、大口スポンサーの撤退が相次ぎ経営は厳しくなる一方で、同年11月には早くも古賀は辞任を表明するも、結局留任するなど混迷をさらに深めた。

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