サッカー横浜FC

Jリーグ

サッカー横浜FC



横浜FC&横浜フリューゲルス
1991年にJリーグに加盟。Jリーグ開幕時の加盟クラブのひとつ。 ホームタウンは神奈川県横浜市、ホームスタジアムは三ツ沢公園球技場(後に横浜国際総合競技場も追加)であった。

練習会場は当初、同市神奈川区にある全日空菅田総合グラウンドを使用していたが、1994年からは戸塚区保土ヶ谷大洋球場(大洋ホエールズの練習場)跡に建設されたフリューゲルス・東戸塚トレーニングセンターを使用した。チームの合併後はF・マリノスが練習場として使用したが、横浜みなとみらい21のマリノスタウンへの移転後は横浜FCが使用するようになった(後述)。

「フリューゲル(Flügel)」はドイツ語で「翼」の意。なお、 /l/ は有声音なので、英語で発音するなら語尾の s は、本来的には /s/ ではなく /z/ となる。

スタート当初は全日空(ANA)のAと、Jリーグ参戦にあたり共同出資した佐藤工業のSを取って「(横浜)AS(エイ・エス)フリューゲルス」と名乗っていた時期もあった。ちなみに読売新聞とフジテレビ「プロ野球ニュース」では1992年と1993年はチーム名表記を「AS(フリューゲルス)」、スポーツ報知と日本テレビも「AS横浜フリューゲルス」と紹介していたが、1994年から「横浜F(横浜フリューゲルス)」に統一された。

1992年 – 1995年までは九州地方にJリーグのクラブがなかったこともあり、「特別活動地域」として長崎県、熊本県、鹿児島県の3県で活動していたが、アビスパがJリーグに加盟した1996年以降は解消した。

1993年
Jリーグ発足を前にエドゥー、フェルナンド・ダニエル・モネール、アウドロらを獲得。開幕戦は清水エスパルスに3-2で競り勝つスタートを切った、チームは1st、2ndステージとも7位に終わった。

2ndステージでの途中でJリーグの優勝が絶望となったため、加茂監督は天皇杯に目標を切り換えことることとし、思惑通り快進撃を続けることが出来た(1回戦:田辺製薬、2回戦:浦和レッズ、準々決勝:ヴェルディ川崎、準決勝:サンフレッチェ広島)。決勝では、1stステージの王者アントラーズに終了間際に2-2の同点とされ延長戦となるも、延長戦で4ゴールを決め6-2で勝利、Jリーグ開幕後初の天皇杯で優勝した。

1994年
開幕前のゼロックス・スーパーカップ(Jリーグの年間優勝チームと天皇杯優勝チームが対戦)で、ヴェルディ川崎と対戦。この試合では惜しくも1-2で敗れるも昨年から磨き上げてきたゾーンプレスが機能し、自信を深めて開幕を迎えることとなった。その勢いそのままに1stステージの第4節から第11節にかけ8連勝。一時は2位になるなど優勝も狙える状況だったが、終盤に山口、前園の怪我による戦線離脱が響き最終的に5位となった。さらに、攻撃の要として活躍していたアマリージャが1stステージ限りで退団・引退するとチームは低迷。2ndステージは8位に終わった。 この年限りで、エドゥー、フェルナンド・ダニエル・モネール、バウベル・ダ・シルバ・コスタらもチームを去っている。

1995年
加茂が日本代表の監督に就任するため退任、ヘッドコーチであった木村文治が監督に就任した。現役ブラジル代表を含むブラジルトリオ(ジーニョ、セザール・サンパイオ、エバイール)の加入が話題を呼んだが、1stステージでは14チーム中13位に終わる。木村は1stステージ第14節で監督を辞任、後任のアントニオ・カルロス・シルバもチームを上位に押し上げることが出来なかった。 大量失点しまうことが多く、両ステージを合わせた失点数がリーグワーストであった。 しかし、シルバの若手起用の下、楢﨑正剛、吉田孝行、波戸康広といったこの年入団した選手が台頭した。
1996年
「再建屋」と呼ばれ、南米では高い評価を得ているブラジル人のオタシリオが監督に就任。オタシリオは昨年までの4-4-2システムから3-5-2に変更。前年度チームに加入したブラジルトリオがチームにフィットし、三浦淳、前園、山口素などの活躍もあり、開幕8連勝(うち開幕6試合無失点記録を樹立)するなど、リーグ前半を首位で折り返した(もし前年度までの2ステージ制ならば1stステージ優勝であった)。しかしアトランタ五輪後に再開した後半戦で勝ち点を伸ばしきれず、優勝したアントラーズ、2位のグランパスと勝利数は21で並ぶものの、勝ち点で及ばず最終順位は3位となった。

1997年
エバイール、前園が退団した一方、バウベルが1994年以来の再入団。1stステージでは最終節までアントラーズと優勝争いを繰り広げ、惜しくも優勝を逃した(勝ち点差2で2位)。 しかし、1stステージ限りでチームの躍進を支えたジーニョが退団すると、得点力が低下し、2ndステージは11位と低迷した。 この年限りで、オタシリオ監督が退任。

1998年
カルロス・レシャックが監督に就任。パウロ・フットレ、イゴール・レディアコフらを獲得、3-4-3スタイルを取ったチームは開幕戦の横浜ダービーでマリノスを延長の末2-1で下すなど好スタートを切ったが、攻撃的スタイルの弊害から翌節から5連敗。その後7連勝するなど、1stステージは10勝7敗の成績を残した。しかし、2ndステージに入ると守備が破綻するなど低迷し、レシャックは2ndステージ第8節をもって不振の責任を取って辞任した。後任監督にはコーチだったゲルト・エンゲルスが昇格した。

1998年シーズンを以て横浜フリューゲルス(横浜F)が横浜マリノス(横浜M)に吸収合併されることが決定したことを受けて、横浜フリューゲルスのサポーター有志によって横浜FCの運営会社となる株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜フリエSC)が12月25日に設立された。

1999年3月、日本サッカー協会により日本フットボールリーグ(JFL)に準会員での加盟が承認された。

ゼネラルマネージャー(GM)に奥寺康彦、監督にピエール・リトバルスキー、コーチに阪倉裕二が就任。また、パベル・ジェハークなど元Jリーガー22人と選手契約した。4月25日に横浜国際総合競技場でジヤトコと初の公式戦(JFL第2節)を行った(引き分け)。第3節(3月17日)のベガルタ仙台戦で初勝利を収めた。JFLリーグ戦は18勝3分3敗の成績でJFLの初代優勝チームとなった。天皇杯は、3回戦でV川崎に敗退。

2000年、JFLの正会員となった。Honda FCから水原大樹や田島宏晃を獲得。リーグ戦は後期第7節で国士舘大学を破り、Jリーグ加盟条件の2位以内が確定。後期第8節で静岡産業大学に勝利して2年連続のJFL優勝を決めた。シーズン終了後、2001年からのJリーグ加盟が承認され、J2参加が決まった。

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